2013年9月27日金曜日

東京オリンピック招致に思う


オリンピックがやってくる!!
そう思うだけで視線が上がり、背筋がシャンとする。

「トーキョー」と聞いたとき、日本が世界に認められたような、
誇らしい気持ちになった。
小さい子供の頃、当たり前にしたことを、ふいに褒められときの、
驚きと、少しの戸惑いと、あの、気恥ずかしいけれど、すごくうれしい、
そんな気持ちがいっぺんに押し寄せたような気分。

それにしても、数年前、大阪が選にもれたときは、あまり落胆もせず、
すぐに忘れてしまったよね。
その前に、名古屋が立候補したことは、今知った…というような状態。
 4年前は、石原さんがなぜオリンピックを呼びたいのかも、
よく分からないままだった。

それが今回、なぜこれほど多くの人の心が一つに重なったのだろう。

震災は一番大きな要因だろう。
はからずも、日本人の「徳」の高さが世界中で取り上げられたことに、
誰よりも一番驚いたのは、私たち自身ではなかったか。

次になでしこジャパンや、ロンドンオリンピックでの日本人の活躍だろう。
そこでは多くの若い選手が、被災地への思いを口にした。
いかにも「熱い」気持ちをもっていそうな選手だけではなかった。
ストイックにスポーツ道を邁進する、ある意味、クールな若者さえも、
被災地への思いを口にしてはばからなかった。

そして、その選手たちは、本当に結果を出した。
その時、人々は、「心」には真の力があるということを、理屈抜きに体感した。
それは、この国の人々のDNAに刻まれた記憶を呼び覚ますのに、
十分な出来事だったのだろうと思う。

そこに、安倍首相の登壇である。
安倍さんの評価が高まっている理由は、その言動が、
適時、的を射てきたからである。
ちょうど、私たちの胸に萌芽してきた心情を、うまくすくって言葉にし、
最大公約数的にまとめてくれる。
先に政権を担ったときにもやろうとしていたのだろうが、
国民の側がやっと、着いていけるレベルに達したともいえるだろう。

そして、東京オリンピックの「安全、安心、確実」という開催計画が、
日本人の国民性と、事情にピタッときたことも要因ではなかったか。
「これならできる」「やってみたい」と、やる気をくすぐる魅力があった

いつしかオリンピックの開催は、具体的な「夢と希望」となり、
招致熱の高まりといううねりを生んだ。

しかし、ここで見逃してはいけない重要なことがある。
それは、これは、誰か一人が仕掛けたものではないということだ。
偶然の重なり…という、人知の及ばない、知識をも超えたところにある、
大きな力によって、導かれた結果であるということを、
ある種の不思議さをもって、皆が感じている…ということである。

人は利害を離れて動くことはできない。それは人の性である。
しかし、利害を超えた力が働くとき、真に人の心は一つになれる。
利害を動機として動くとき、それは結果として、真の利益を供しない。
そのジレンマは、いまや全世界、共通の認識になっているのではないだろうか。

最終プレゼンで初めて知った、
「オリンピック運動」「オリンピック ムーブメント」の概念とその意義。
日本人は、その「強固な信奉者である」…というのは、ややフライングだが、
信奉者たることを拒絶する人は僅少であろう。
もしかすると、すでに日本人の感性に、すでに組み込まれた精神なのかもしれない。
「だからここまで皆の心が一つになったんだ」と、今、思う。

最終プレゼンの内容が、抵抗なく心に入ってきたことにより、
さらに国民の心が一つになったと言ってよいだろう。

きっかけは、損得で、賛成、参加するのでいいと思う。
選手として、メダルを目指す…ということでいいと思う。
参加してこそ、利害を超えた「精神」が見えてくる。
「参加することに意義がある」って、そういうことではないのかな?

物心両面で、全国民が参加できる良好な機会に恵まれた。
この得難い体験を共通の財産とできることの幸運に感謝したいですね。